帰ってきた書記長のひとりごと

昔の名前で再び始めてみようと思います。

ある日突然、名前を捨てる。

 疲れていたと思う。隙があった。職場で休憩中、スマホツイッターの、自分のアカウントページを開いていた時だ。現場の若い男の子が私を探してやってきた。業務上の相談ということだったのだが、彼はメモ書きを持ってきた。じゃあそれを見ながら話そうと、何気なくテーブルの上のスマホの横に置くように促した。話し始めて数秒後、スマホの画面に自分のアカウントページが開かれていることに気がついた。これもまた何気なく、スマホをひっくり返して何事もなかったかのように話を続けたが、内心はもう、「ああ…やってしまった…」とパニックの波を必死になだめ抑えていた。その男の子(子呼ばわりしているけれども成人である)のキャラクター的に、その画面を認識し、瞬時にアカウント名を記憶し、後でスマホでサーチをかけるようなことは、まず無いかな…という確率予想は50%、いや70%を超えてはいたけれども、こういうこと(ネット絡み)は用心しなくてはならない、過小な判断は絶対にしてはダメだ、と警告してくる声が心の奥からしきりに聴こえ、今振り返るとまぁ自分でも早々に決めたな、と思うほど即断でアカウントを封じ、かつ名前も捨ててしまった。

 その名前はどれくらいの年月、名乗っていただろうか。短くはない、長い…今の自分にとって「○○○(その名前)」イコール自分だ、という自覚がずっとあった。自分にとっては、もはや自己同一性を伴った名前だった。ネット上でそう名乗ることも、人からそう呼ばれることも、あたりまえ過ぎる日常だった。そんな日常の断絶。

 新しい名前をどうしようか。そうそう考え付くものではない。アクシデントが起きた休憩時間から後の仕事の間、ずっと考えたが思い定まることはなかった。(仕事中に何を考えているのだという話だが。)アカウントの越し先も含めてようやく着地したのは、昔の名前(場所)に回帰すること、だった。事案のアカウントより前に、自分が最初にツイッターを使い始めた時のアカウントの存在を思い出し、試行錯誤の末ログインに成功、ここに移ることとした。名前はそれよりももっと前、趣味のサロン的掲示板が華やかなりし頃にそうした場所で使ったり、あるいは今で言うブログ的なもの、そしてホームページにメーリングリスト(実はいずれも開設、主宰していたのである)…20年近く前にはそれこそ当時の自分が自己同一性を伴って使っていた名前を、再び流用することにした。当時の人格と今の人格は必ずしも同じとは言い難い部分もあるが、全く新しい名前を新造して用いることに比べれば、抵抗感や違和感は少ないだろうと判断した。

 新しい(昔の)名前も、この先気まぐれで変えることがあるかもしれないし、またボーっとしてインシデントを招き今回と同じような顛末を辿らせてしまうことがあるかもしれない。いや、後者のような事態はもう二度と起こさないようにしなければ。なぜなら収拾の為の諸々がとても面倒かつ疲労するし、なによりそれまでの日常の断絶は結構大事(おおごと)だと痛感する次第だからだ。